南アフリカのクリケット

南アフリカでは、クリケットはサッカー、ラグビーについで、3番目に人気があるスポーツとして親しまれています。

世界的にもスポーツが盛んな国である南アフリカにおいて、最も人気があるのは、サッカー、ラグビー、クリケットです。

サッカーは主に黒人、ラグビーはアフリカーナーと呼ばれるオランダ入植者の子孫、そしてクリケットはイギリス系の白人とインド系に人気があります。

目次

イギリス人入植後に普及

他のコモンウェルス諸国同様、南アフリカにクリケットが普及したのは、19世紀初頭です。17世紀から南アフリカは、オランダ人が入植し、ケープ植民地(オランダ領東インド)として統治していました。しかし、1795年に母国のオランダが、フランス革命軍によって占領され、フランスの傀儡国家バタヴィア共和国によって統治されていました。

1814年にナポレオン戦争によって、イギリスがバタヴィア共和国の統治下にあったケープ植民地を占領し、その後、ケープ植民地はイギリス領になります。イギリス領になった頃に、南アフリカにクリケットが普及しました。

1848年にポートエリザベスで南アフリカで最初のクリケットクラブができ、その後、グラハムズタウン、ケープタウン、キングウイリアムズタウンに広がっていきました。1909年にはイングランド・ロンドンのローズ・クリケットグラウンドに集まり、後のICCになる「インペリアル・クリケット・カンファレンス」が設立されました。

アパルトヘイトで国際舞台から追放

二度の世界大戦によって、クリケットは中断に追い込まれたが、南アフリカのクリケットは継続されていました。当初、南アフリカではイギリス系の白人だけがプレーしていましたが、インド系やアフリカーナーにも普及されました。

しかし、1948年の国政選挙の後に、南アフリカでは人種隔離政策「アパルトヘイト」が制定されました。人種隔離と差別を進める法律の制定には、国連憲章と世界人権宣言に背く「人道に対する罪」として国連に非難されました。

アパルトヘイトを固辞する南アフリカは、しばらくはオーストラリア、イングランド、ニュージーランドと対戦をし続けていましたが、1961年にコモンウェルスから脱退。1970年にはICCから追放処分を受けました。

当時の南アフリカは世界最強と呼ばれ、グレアム・ポロック、バリー・リチャーズ、マイク・プロクターなど才能に恵まれた選手を輩出していたが、国際舞台からは締め出されることになりました。それでも南アフリカは1982年から「反乱軍」と呼ばれる非公式の代表チームを組織し、スリランカ、オーストラリアなどと対戦することはありましたが、ICCからは公式試合として認められていません。

1991年にアパルトヘイトが撤廃されると、ICCは南アフリカの国際舞台復帰を認め、ICC正会員として復帰しました。22年間国際舞台から離れていたものの、高速ボウラーをたくさん輩出していた南アフリカは、1998年にICCチャンピオントロフィーで優勝を果たしました。

クオーター制を導入

アパルトヘイトを撤廃し、国際舞台に戻ってきた南アフリカのクリケット。元々はイギリス系の白人が中心であり、現在も白人に親しまれるスポーツであるものの、クリケットは多様化し、オランダ系のアフリカーナーや、先住民の黒人にもクリケットが普及されるようになりました。

2000年代に入り、南アフリカでは有色人種のクリケッターが増え、2006年にはオールラウンダーのアシュウェル・プリンスが、国内初の有色人種のキャプテンになりました。

現在、南アフリカ代表ではクオーター制を導入しており、黒人は最低2人を代表入り、有色人種では最低6人は代表に選出するルールが定められています。アパルトヘイトを反省し、多様性を担保しようという考えで導入されています。

しかし、これには一部の白人選手が反対し、国内屈指のバッターだったケビン・ピーターセンは、南アフリカを離れ、イングランドでのプレーを選びました。

「競争原理に反する」という理由で忌避されることも会ったクオーター制だったが、現在ではヴァーノン・フィンダンラー、カギソ・ラバダ、ルンギ・エンギディなどのトッププレーヤーを輩出しています。

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